蘭亭の宴の由来

蘭亭の宴

 お酒と書は深い繋がりがあり、日本酒のラベル文字はその時代を代表する書家が揮毫しています。また、書の最高峰とも呼ばれる作品、王羲之の「蘭亭序(らんていじょ)」は宴の席で酔っている状態で書いたとのエピソードも。

 そして、お米と水の美味しい場所でしか作られない日本酒は地域によって違う味や香りが楽しめる「日本文化の味」とも言われています。

 書ギャラリー親かめ子かめでは、日本文化を知る・作る・楽しむ事の一環として、書家、画家、造形作家達が「酒」と「宴」をテーマに制作した作品による展示会「蘭亭の宴(らんていのうたげ)」を2014年から毎年開催。過去、全国から150名以上の作家、10社以上の企業に参加していただきました。

 展示会だけではなく、酒造と共同で日本酒のラベルを制作、協賛酒造の日本酒を楽しむ懇親会なども実施。交流と制作から日本芸術文化、日本酒文化の発展と継承を目指しています。

主催…書ギャラリー親かめ子かめ
運営…OBMI LAB

 

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蘭亭序

蘭亭序八柱第一本(張金界奴本)

 

【原文】

永和九年、歲在癸丑、暮春之初、
會於會稽山陰之蘭亭、脩稧事也。
羣賢畢至、少長咸集。此地有崇山峻領(嶺)、
茂林脩竹。
又有清流激湍、映帶左右、引以為流觴曲水、
列坐其次。
雖無絲竹管弦之盛、一觴一詠、亦足以暢敘幽情。
是日也、天朗氣清、惠風和暢。
仰觀宇宙之大、俯察品類之盛。
所以遊目騁懷、足以極視聽之娛、信可樂也。

夫人之相與、俯仰一世、或取諸懷抱、
悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。
雖趣(取/趨)舍萬殊、靜躁不同、當其欣於所遇、
暫得於己、怏(快)然自足、不知老之將至。
及其所之既倦、情隨事遷、感慨係之矣。
向之所欣、俛仰之間、已為陳迹、
猶不能不以之興懷、況脩短隨化、終期於盡。
古人云:「死生亦大矣。」豈不痛哉。

每覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、
不能喩之於懷。
固知一死生為虛誕、齊彭殤為妄作。
後之視今、亦由今之視昔。悲夫。
故列敘時人、錄其所述。
雖世殊事異、所以興懷、其致一也。
後之攬(覽)者、亦將有感於斯文。

【訓読】

永和九年、歳癸丑に在り。暮春の初め、會稽山陰の蘭亭に會す。禊事を修むるなり。
羣賢畢(ことごと)く至り、少長咸(み)な集まる。此の地に崇山峻嶺、茂林修竹有り、又た淸流激湍有りて、左右に映帶し、引きて以て、流觴の曲水と爲し、其の次に列坐す。
絲竹管絃の盛んなる無しと雖も、一觴一詠、亦た以て幽情を暢敍するに足る。
是の日や、天朗らかに氣淸く、惠風和暢す。仰ぎて宇宙の大を觀、俯して品類の盛を察す。
目を遊ばせ懷(おも)いを騁(は)する所以にして以て視聽の娯しみを極むるに足る。信(まこと)に樂しむ可きなり。

夫れ人の相い與(とも)に一世に俯仰するや、或いは諸(これ)を懷抱に取りて、一室の内に悟言し、或いは因りて託す所に寄せて、形骸の外に放浪す。
趣舍萬殊にして、靜躁同じからずと雖も、其の遇う所に欣び、暫く己れに得るに當りては、怏(快)然として自ら足り、老いの將に至らんとするを知らず。
其の之(ゆ)く所既に倦み、情、事(こと)に随いて遷るに及んで、感慨之れに係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎょう)の閒に、已に陳跡と爲り、猶お之を以て懷いを興さざる能わず。況んや脩短化に随いて、終に盡くるを期するをや。
古人云えらく、死生もまた大なりと、豈に痛ましからずや。

毎に昔人感を興すの由しを覽(み)るに一契を合せたるが若し。
未だ嘗て文に臨みて嗟悼せずんばあらざるも、之を懷(こころ)に喩(さと)ること能 故に時人を列敘して、其の述ぶる所を録す。世殊(こと)なり事異なると雖も、懷(おも)いを興す所以は、其の致(むね)一なり。
後の覽(み)る者も亦た將(まさ)に斯(こ)の文に感ずること有らんとす。

【超訳】訳…益満新吾

永和九年の癸丑の歳、暮春の初めに会稽山陰の蘭亭って場所に集って禊事、つまり心身の浄化をやることにした。
声をかけると出来の良い奴らがこぞってやってきて、老いも若きもみな来てくれたぜ。
ここには高い山とか聳え立った峰とか豊かな林に高く伸びた竹林があってな、清流とか早瀬とか、とにかく絶景に満ち溢れているんだ。
その川の流れを引いて曲水の宴の舞台にしてみんなでその流れに並んで座ってみた。
BGMとか鳴り物はねえけどさ、こんな風光明媚な場所で酒飲んだり詩を詠んだりすりゃそれだけで、ゆったりとした気分を表現するには十分ってもんだ。
今日は天気がよくて空気が澄んでて春風ものどかだ。天を見上げりゃこの世界の大きさが見え、目を落とせば現実世界の多様性が見える。
目を遊ばせ空想をひろげられるのはそのためで、見たり聞いたりすることの楽しさを最高に満喫できるってわけだ。マジ楽しいぜ。

・・まああれだ。
人間はさっき俺が書いたように空を見上げたり目を落したりしながら人生を送るわけだが、その意味みたいなものを心に抱いて家の中で真理を語るヤツとか、そんなの関係ねえってんで、自分がやりたいことを自由奔放にやるヤツとかいるよな。
みんな方向性は違うし、おとなしいヤツとか騒がしいヤツとかもいるんだが、共通してるのは良いめぐり合わせに遇って得意になって生きている時は、みんな満ち足りた気分になって年を取る事さえ忘れるよな。
しかしだ、やってることにもだんだん飽きが来てつまんなくなって、現実も移り変わってしまえば気分もダレちまうしさ、なんだかショボンって考え込まねえか。
あの喜び溢れたワクワクな世界もあれよと言う間に色褪せちまうので、なおのこといろいろ思っちまう。
ましてや人の命は自然現象ってやつで徐々に衰えついには死んじまうわけだからなおさらだよな。
古人も「死ぬも生きるも大問題」だとか言ってるけどさ、何だか痛ましくねえか?

そんな彼らの文章を読むたびに自分の苦悩といちいち符合してため息ばかり出るんだが、俺はまだこの虚無感を腹に落とすことが出来ないでいるのさ。
こんなの読んでるとマジで死と生がひとつだとか言うのは大嘘でまた荘子が言ったあの、なんだっけ?短命も長寿も同じだとかさ、あんなのは出鱈目だってことが解るよ。
後の時代のおまえらがこの時代の俺らを見るのは、また俺らが昔の人を思うのと同じさ。
共に死んじまった者を見ているにすぎないわけだ。
要するに何もかもが移り変わっちまうんだよ。悲しいぜ。
だもんでさ、今日集まった仲間の名前を列記してさ、その思うところを書きとめることにしたんだよ。
いくら時代が変わっても人が感慨を覚えるところは結局同じだと思ってさ。
後世のおまえらもきっとこの序文に何か感じてくれると思うんだ。

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